「与えたい」 という気持ちより
「与えて欲しい」 という気持ちの方が大きい限り
人間は成熟しない。
何かを人に与えて、相手の喜ぶ顔を見るだけで
自分も幸せだと感じる。
そういった幸福を知ったときに
初めて、愛することの意味を知ることになり、
人格者への第一歩を踏み出せるのだと思う。
Wish You A Happy Life
降り積もる 雪に未来を 踏む私
「与えたい」 という気持ちより
「与えて欲しい」 という気持ちの方が大きい限り
人間は成熟しない。
何かを人に与えて、相手の喜ぶ顔を見るだけで
自分も幸せだと感じる。
そういった幸福を知ったときに
初めて、愛することの意味を知ることになり、
人格者への第一歩を踏み出せるのだと思う。
一人でいるときも、友達や恋人といるときも、
いつだって 「ひとり」 の孤独を感じて生きてきた。
最初は自分に何かしらの感情が欠落しているのだと疑ったが、
やがてそれが 「当たり前のこと」 だと思えるようになった。
それに気付いた時、初めて 「大人」 になれた気がした。
夕方に空けた
缶チューハイを皮切りに
深夜になって
友人たちが 「おやすみ」 を言う中
延々と未だに
一人で缶を指にぶら下げて
飲み続ける
この世界には
嬉しいことも、悲しいことも
同じくらい溢れているけれど
同時に存在する
得体の知れない理不尽さが
どちらか一方の極で
やっと安定して
慣れかけたという頃に
抗いようのない勢いで
そのバランスを壊していく
その哀しさに耐えられないから
良くないことと知りつつも
ひたすら
酒と安定剤を流し込む
先が見えていることには
容易に耐えられる
けれど
いつ崩れるかわからない
土台の上を歩き続けるには
あと数センチだけ
僕には勇気が足りない
ろくに酔えもしないままに
うっすらと、そんな気がした。
久しぶりに
バタついている土日
昨日は
シルバー人材センターの
器用なおじいさん達に
家中の網戸を貼り替えてもらい
今日は今日で
起き抜けから
リビングのカーテンの
寸法を測ったり
ボロボロになった
カーペットの床を隠すための
絨毯を上に被せたり
さながら
新装オープンといった空気
よくよく考えてみたら
当たり前のように
毎日住んでいる家だけれど
形あるものは
だんだん劣化していくんだな、と
曇ってきた空を見ながら
改めて実感した。
終わってしまった過去のことで悩むな。
まだ始まってもいない未来に怯えるな。
過去は誰にも修正できず、未来に何があるかは未知数であり、
自分が認識して方向を修正できるのは、現在だけなのだから。
自分が弱い人間であるということは
決して恥ではない。
むしろ、自分の弱さを隠したり、
誤魔化したりする行為のほうが
よっぽど恥ずべきことなのだ。
最近
SNSを離れがちで
ひたすら
Twitterにかじりついている
閉ざされた空間で
信用できる友人とだけ
やりとりするのもいいけれど
誰が読むか分からない
オープンな場所で
日常的な雑談などを
気軽にできるようになったのは
時代の変化もあるだろうし
僕のような古いユーザと
比較的、最近 PCを始めた人との
ネットや、通信に対する
意識の違いもあるのだろう
人が作りだしたものを
人のために有効活用できる
それは
とても素晴らしいことなんだ、と
改めて実感した。
辛いときほど
酔いはよく回る
昨夜は
夕食と一緒に
500mlの缶チューハイを
一本しか飲んでいないのに
気がついたら
椅子の上で眠っていた
どうして僕たちは
傷付け合いながらしか
生きられないのだろう
どうして
すべてを許し
許された中で生きることが
こんなにも難しく
実現困難なことなのだろう
僕が大切に思っている
すべてのひとたちと
いつか本当に
愛し、愛されながら
時を刻んで
生きられるようになりたい
たとえ僕の命が
少しだけ縮んだとしても
構わないから。
人間関係において、自分が与えた有形無形の好意に
見返りを期待してしまうと、
相手と良い関係を築くことはできない。
ひたすら与え続けることに
自分の存在意義を見いだせる人は、
他人から無条件に多くを与えられる人よりも
遙かに幸せである。
日々垂れ流される
暗いニュースに
まるで
呼応するかのように
僕の生活に流れ込む
人間関係のトラブル
人と人は同じ種であるのに
どうして、人間のことが
一番の悩みになるのかと
また、いつものように
疑問に思う
鼻先から部屋へと抜ける
アルコールの匂いと
どうでもいい
ただの文字の羅列を見ながら
今度もし
生まれてくるとしたら
人間以外のものがいいと
心底、思った。