いつか自分が死ぬ時には、
「生きていてよかった」 と思いながら幸せに最期を迎えたい。
そのために僕は、
いつでもその瞬間を精一杯生きることだけを考える。
なぜなら、思い出とか記憶とかいうものは
人生の瞬間をすべて繋ぎ合わせて出来上がるものなのだから。
Wish You A Happy Life
降り積もる 雪に未来を 踏む私
いつか自分が死ぬ時には、
「生きていてよかった」 と思いながら幸せに最期を迎えたい。
そのために僕は、
いつでもその瞬間を精一杯生きることだけを考える。
なぜなら、思い出とか記憶とかいうものは
人生の瞬間をすべて繋ぎ合わせて出来上がるものなのだから。
空と海の境目が場所や時間によって変化しているように、
男と女の関係も、それがどんなに平穏な日々であろうとも
時々刻々とそのありようを変化させている。
この互いに性質の違う両性が賢く付き合うためには、
「自分」 と 「相手」 だけを見ていては不十分であると言える。
「与えたい」 という気持ちより
「与えて欲しい」 という気持ちの方が大きい限り
人間は成熟しない。
何かを人に与えて、相手の喜ぶ顔を見るだけで
自分も幸せだと感じる。
そういった幸福を知ったときに
初めて、愛することの意味を知ることになり、
人格者への第一歩を踏み出せるのだと思う。
一人でいるときも、友達や恋人といるときも、
いつだって 「ひとり」 の孤独を感じて生きてきた。
最初は自分に何かしらの感情が欠落しているのだと疑ったが、
やがてそれが 「当たり前のこと」 だと思えるようになった。
それに気付いた時、初めて 「大人」 になれた気がした。
終わってしまった過去のことで悩むな。
まだ始まってもいない未来に怯えるな。
過去は誰にも修正できず、未来に何があるかは未知数であり、
自分が認識して方向を修正できるのは、現在だけなのだから。
自分が弱い人間であるということは
決して恥ではない。
むしろ、自分の弱さを隠したり、
誤魔化したりする行為のほうが
よっぽど恥ずべきことなのだ。
人間関係において、自分が与えた有形無形の好意に
見返りを期待してしまうと、
相手と良い関係を築くことはできない。
ひたすら与え続けることに
自分の存在意義を見いだせる人は、
他人から無条件に多くを与えられる人よりも
遙かに幸せである。
幸福と不幸、つまり
ラッキーとアンラッキーの比率は
人生において五分五分である。
いま逆境にいる人、苦しい思いをしている人は
次に必ずラッキーが待っている。
それを忘れずに生きられたら、
向かい風は決して怖くない。
「偽悪家」は、
決して偽善者の対義語などではない。
偽善者は、実際は悪人、もしくは
善意の無い人間であるにも関わらず
それを隠蔽して
「善人だと思われたい」 人々であるが、
偽悪家の場合は
悪人を装いたいという願望はあったとしても
心の底から 「悪人だ」 と思われたいような人は
まず存在しないはずである。
偽悪とは、嘘偽りの性質を持つものではなく
自己表現のための、一つの
演技に近いものと考えたほうが良い。
初対面の異性から突然
「好きになってくれ」 と言われて
それが困難であるように、
「恋をしたい」 と思っている間は
恋はできない。
恋というのは、意識的に始める行為ではなく、
自然発生的な要素を持つ、
ある種の
サプライズイベントのようなものである。